おばちゃんボタンの存在意義を考察する
昨今、タブレットやIT家電が様々に進化し、自然な文での問いかけに的確に答えてくれるようになってきています。それはそれで便利ではありますが、いささか真面目過ぎるように思われます。
正確な回答を求めているので、ある意味当然とも言えますが、そうであるが故に、人間側が僅かな不正確さも許容できなくなっている状況も生じていると考えます。それは使用者にストレスを与えます。
また、正確な答えを受け取ることで、正確な行動をも無意識的に要求されてしまうことも推測され、画一的な行動や確実な成果のみへの欲求を招きかねません。
機械は正確な回答をするはずだ、その考え方から一歩離れてみないと、来るロボット社会では疲れてしまうばかりなのではないかと我々は考えます。
しからば、どういう反応ならば、ストレスなくIT機器とコミュニケーションすることができるか?
その一つの解を我々(スバルPC研究会)は「おばちゃんボタン」と見ます。ここでいう「おばちゃん」とはいわゆる大阪のおばちゃんであり、「ボタン」とは一つのアプリのアイコンのようなものを示します。
大阪のおばちゃんとは何か? そのステレオタイプとは、がさつで粗雑だが世話焼きで面倒見が良く、情報は細かいが正確性は今一つで、時折飴ちゃんをくれる憎めないような存在です。そのような存在がボタンを押すと出てくる、あるいは呼び掛けると出てくるのです。
例えば呼び出すとダルそうな声を出して、素っ気なく「何?」と訊いてきます。しょうもないことだったら「自分で調べ」と返されます。それでも問えば渋々教えてくれます。しかし、近所の事件なら事細かに話してくれます。
今日近所のどこのスーパーで何が安いか知りたいとしましょう。IT機器が教えてくれた正確であるはずの情報が不正確だったら、苛立ちを覚えるかもしれません。しかしながら、そこにおばちゃんボタンが介在していれば、そういうこともあるかと、ある程度納得できそうです。
ここには、信頼感と親密度の配合比率というものが許容量に効いています。信頼感100%で親密度が0%であれば、許容量は小さくなります。また、親密度が100%で信頼感が0%でも同様でしょう。中間状態でのみ、人間の許容量は増加すると考えられます。
その中間状態で、どちらにも大きく振れそうな、またはリアルタイムで配合比率が変化しそうなものの一種の実在物が、大阪のおばちゃんなのです。
特に重要でない情報を話す機械は過去にもあったでしょう。それも長期的には人間は価値を見出だせません。有用な情報をタイムリーに提供できることは、やはり魅力であり存在価値です。しかし、人間の期待度との誤差があると、そこに距離感が生まれてしまいます。誤差を埋める努力だけではなく、誤差が気にならなくなるように人間の心理を導いてやるアプローチ。これもまた有効でしょう。つまりは、IT機器のコミュニケーション力に対しても判断力に対しても、いかに許容量を得られるようにするかが、IT機器への「愛着」構築の一歩と考えます。
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